過労死をいっそう促進する「残業代ゼロ制度」はどう考えればいい

働けど
働けどなお
我が暮らし
楽にならざり
じつと手をみる

1910(明治43)年に26歳で夭逝した歌人の石川啄木による、あまりにも有名な短歌である。「どれだけたくさん働いても、一向に暮らしは楽にならないのはなぜだろう? 途方に暮れて、思わずじっと自分の手を見つめてしまう・・・」という意味である。

啄木は若き才能あふれる文学者であったが、生前はその才能が世間になかなか認められず、代用教員や校正など、生活のために様々な職に就いていた(ちなみに、彼は周囲の人に借金をしまくっており、しかもその返済をしなかったという)。ただし、啄木は肉体労働には就いていなかったので、「じつと」見つめていた手は、きっと赤剥けもささくれもなく、細く白かったのだろうと推測できる。

100年以上も前に啄木が詠んだ歌のような思いを、あなたは抱いたことはないだろうか。現在、日本では、「官製春闘」と呼ばれる国家主導による賃上げの動きが活発だが(※2015年3月31日に、安倍晋三首相は『賃上げの 花が舞い散る 春の風』という俳句をひねっている。ちなみにこの俳句、作品の出来としては最悪だと酷評されている…)、実際には、賃上げを実感しているのはごく一部の大企業で働く労働者だけということも夙に指摘されている。春の風の暖かさを感じている労働者は、どうやらほんの一握りのようである。

賃上げの
花が舞い散る
春の風

さて、労働基準法の改正案が4月3日に閣議決定し、国会に提出された。これは、労働者にとって「陽春の風」のような優しく暖かいものなのだろうか。それとも、「真冬の吹雪」のような冷酷で辛いものなのだろうか。前者の見解をとる論者は、今回の制度を、成果で報酬を決める「高度プロフェッショナル制度」と呼び、後者の見解をとる論者は、過労死をいっそう促進する「残業代ゼロ制度」と呼ぶ。同じ改正案であっても、なぜここまで真逆の名称で呼ばれるのだろうか。

今回の改正案で基本となるのは「ホワイトカラー・エグゼンプション」(WE)と呼ばれる制度である。これは、アメリカで実施されている制度で、ホワイトカラー、つまり事務職のうち一定の条件を満たす労働者は一切の労働時間規制を除外するというものである。

日本では労働時間は、労働基準法32条で「一日8時間、週40時間」と上限が定められている。これを超過して残業や休日労働があった場合には、所定の割増賃金を払わなければならない(表参照)。

これがいわゆる「残業代」といわれるものである。

表:残業時間と割増率(※所定労働時間を9:00~17:00とした場合)

現行の制度でも、労働時間規制から除外されている労働者は存在する。労働基準法41条2号の「管理監督者」とみなされる者である。管理監督者は労働時間規制のみならず、休憩、休日の規制も除外されている。したがって、管理監督者にはそもそも残業という概念がない。よって、
残業代もゼロということになる。管理監督者制度は労働法の治外法権のようなものである(唯一、深夜割増だけは適用される)。だから、使用者が安易に労働者を管理監督者として取り扱わないよう、判例は厳しく制限している(有名なものとして、マクドナルドの店長を管理監督者として労働時間規制から除外し残業代を支払っていなかった行為を違法とした「マクドナルド名ばかり管理監督者訴訟」2008年1月28日東京地裁判決がある)。

今回の改正案には、41条2号のような「労働時間規制なし=残業代なし」の労働者の範囲をさらに拡大させようとの明確な意図がある。具体的には、「年収1075万円以上で、金融商品の開発、経営コンサルタント、研究開発などの高度な職業能力をもつ者」を対象に、「労働基準法で定める労働時間、休憩、休日及び深夜の割増賃金に関する規定を適用しない」という法改正案である。管理監督者のときに適用されていた深夜割増も、今回はまるっと除外されている。

現在の労働法は、基本的には、労働した時間の長さに応じて賃金を支払うしくみになっている。

そして、労働の成果とは、働いた時間の長さに比例するものだという考えを前提としている。わかりやすい例でいうならば、5時間働けば、1台の車を完成させる。10時間では2台、15時間では3台…、というわけである。

しかし、製造部門でない事務部門(ホワイトカラー)の労働は、このようにきっちり時間で労働を計れるかというと必ずしもそうではないということになる。たとえば、何かの商品を企画開発するような場合、8時間机の上に座っていたら必ず1つの企画が生まれるかといえば、そうではない。あるときは1時間で1つの企画が生まれることもあれば、あるときは3日間で1つの企画が生まれることもあるだろう。つまり、労働の成果と、働いた時間は、比例するとは限らない。

そこで出てきたのが、今回の法改正案である。

今回の法改正案を全面的に評価する神戸大学大学院教授の大内伸哉氏は、2015年2月14日の朝日新聞で次のようなコメントをしている。

「指揮命令に忠実に従うのではなく、知的な創造力を生かして企業に貢献する人がいます。そういう人にとっては、労働時間規制はそもそも不要です。」

「特に、割増賃金という形で報酬をもらうのではなく、よい成果を上げて基本給や賞与、さらには昇進という形の報酬が良いと考えている労働者にとっては、時間の制約は余計な規制です。」

「今の労働法は、労働者を弱者と位置づけ、保護するという発想が強すぎます。」

一方で、今回の法改正案に全面的に反対するのは、労働弁護士の棗一郎氏である。彼は、同じく2015年2月14日の朝日新聞で次のようなコメントをしている。

「成果に応じた賃金のみを支払うことで、ダラダラ残業が減り、皆早く家に帰れるようになって、長時間労働がなくなる、ということはありえません。」

「残業の一番の原因は、所定労働時間内では終わらない過大な業務命令やノルマです。長時間労働がなくなるかどうかは、業務量の多寡です。労働者が業務量を自分でコントロールできるかどうかで決まるのです。」

「新制度は、日本で働く労働者の命と健康を脅かす危険なものであり、過労死を助長させる“過労死推進法”です。」

さて、果たして読者のみなさんは、大内氏と棗氏、どちらの考えに同意するだろうか。

ここで基本に立ち返って考えてみよう。まず、1日8時間労働という原則は、「人間が人間らしく、心身ともに健康に、持続可能な生活を送ることができる」ために、1日24時間のうち、労働に従事するのは3分の1に該当する8時間が限度であるという考えに基づくものであるからに他ならない。さらに、「8時間労働」は、労働者が何もしないで口を開けていたところに天から降ってきた恩恵では決してない。使用者から強い支配と圧迫を受けながら、奴隷のように働かされてきた労働者たちが、勇気を振り絞って「人間らしく働かせろ!」と声を上げ闘い続けた結果、勝ち取ってきたものである(1886年5月1日に合衆国カナダ職能労働組合連盟がシカゴを中心にストライキをして勝ち取ったのが始まりである)。労働者の「命」をかけた闘いの歴史の足跡の上に、私たちは現在いるのである。ちなみに、冒頭で紹介した石川啄木が短歌を詠んだ翌年(1911年)に、日本で初の労働法「工場法」が制定されたが、工場法には労働時間の上限の設定すらなかった(子どもと女性にのみ1日12時間という制限有り)。

このような労働者の闘いによってもたらされた労働時間は、賃金とセットで、「最もコアな労働条件」として位置づけられている。なぜか、労働時間は、そのまま労働者の心身の健康に直結する問題だからである。日本は、長時間労働とそれに伴う過労死、過労自殺が、社会の大きな病理となっており、「働きすぎで死ぬ国」という不名誉なイメージが定着している。そんななか、今回のような労働時間規制を全面的に除外するといった現状に逆行する改正案を出してくるとは、どういうことだろうか。

賛成派はその問いに対しては、このように答えている。

「いや、むしろ現行制度で過労は全然解消されていないではないか。それはダラダラと残業をして割増された残業代制度があるからこそ、労働者はその制度を使ってしまい、結果、長時間労働になるのだ。時間給的な考えから成果に応じた働き方に変えたら、メリハリができて過労はすぐに解消されるはずだ。」

しかし、残業代を当てにしてダラダラと会社に残る労働者などというのは、皆無とは言わないものの、極めて少数である。マジョリティを占めるのは、容量オーバーの業務が課せられ帰りたくても帰れない労働者であることは明らかである。さらに、使用者の業務命令権や指揮命令権は非常に強固なものであり、労働者自らが業務の内容や成果目標を自由に設定できるなどということは、ほとんど夢物語である。年収1075万円以上だからといって、一切の仕事に関わる決定権が労働者に委譲されるなどということはありえない。

そもそも、本気で長時間労働や過労死を減らしたいと考えているのならば、まずは、まったく足りない労働基準監督署の監督を徹底的に行い、違法な事業主を一つ残らず逮捕するとか、三六協定で設定できる残業時間について刑罰付きの上限規制を設けるなど、有効な方法はいくらでもある。そういった根本的な策をとらずに、なぜ、労働者の健康に直結する労働時間の規制を取っ払うという案を進めようとするのか、大いに疑問がある。

最後にいっておこう。「労働者階級」という言葉は、もはや死語だと冷笑する者も多いだろう。しかし、冷笑する者は、実は何よりも労働者たちが団結することに恐怖を抱いているのだと思う。労働者がひとたび団結したら、その力は誰も止められないほどの強さを発揮するということは、これまでの歴史が証明している。経営者は、「年収1075万円以上」という境界線を作って、労働者間を分断させようとしている。つまり、わずかな高額所得者だけを対象とすることによって、「自分とは関係のない制度だ」「高額所得者だったら、残業代なんてもらわなくていいよね」といった負の感情を人びとの間に植え付けようとしているのだというのは、穿ち過ぎだろうか。

労働者はこうしたワナにはまってはならない。「自分とは関係のない」と思っているうちに、いつしかじわりじわりと対象範囲を拡大させていき、気がつけば自分も取り込まれていたというのは、これまでの労働者派遣制度での「いつか見た風景」である。ワナにはまらないために何ができるかいえば、時代が変わっても、変わることのない労働法の本質(「1人では弱い、だから、仲間と団結する」)をきちんと見つめること、つまり「労働者は弱者」であることを、まずは直視し、認識することだと思う。そうすれば、今回の法改正案については、自ずと評価が定まるだろう。


奥貫妃文