2015年夏。戦後70年を迎えた日本。この節目の年に、安倍晋三総理大臣を中止とする政権与党は、現行憲法下で「集団的自衛権」の行使は可能と、従来の解釈を180度変更し、また、安保法案を与党の賛成多数で成立させた。
このような政府の武力行使への積極姿勢に対して多くのNOの声が巻き起こった。その声はやがて学生たちの自発的な行動につながっていった。なかでも大きなムーブメントを巻き起こしているのは「SEALDs」(シールズ:Students Emergency Action for Liberal Democracy – s)という団体である。「自由と平和と民主主義」を守るというモットーのもと、現在の日本政府の軍事化に反対を表明するために、全国各地の大学生たちを中心に結成された団体だ。
「日本の若者は政治に関心がない」、「日本の学生が社会運動するなんて、大昔の話」というイメージが一般化していたなか、SEALDsは、そうしたイメージを鮮やかに裏切り、颯爽と現れた。これに刺激されて、さらに若い高校生や、これまで社会運動をやったことのない子どもをもつ母親たちも路上に飛び出し、「戦争をしない国に!」「誰の子どもも殺させない」と声を上げた。中高年の人たちによるOLDsやMIDDLEsといった団体も結成された。
素晴らしいのは、SEALDsは、自分たちが注目されてもまったく浮ついていないところである。彼らは強大な権力と闘う困難さと辛さを理解している。路上でデモをして反対の声を上げたところで、すぐに情勢が変わるなどといった楽観的な考えをもってはいない。それでも、「絶対に戦争につながる政府の動きを止めなくてはならない」という信念と覚悟をもって活動をしている。粘り強く、そして、決して諦めず、こうした彼らの運動は、確実に社会に影響を与えている。
安倍政権に対する最近の支持率の低下は、SEALDsを初めとするこうした草の根の運動が少なからず影響していることは間違いない。自民党の現職議員からは「SEALDsは自分たちが戦争に行きたくないという、つまり自分のことだけしか考えていない極端な利己的考えに基づく」(武藤貴也自民党衆議院議員)といったTwitterの書き込みが出た。「自分のことしか考えていない」のであれば、SEALDsで社会運動をすることもないだろうし、そもそも戦争に行きたくないというのが「利己的」という意見それ自体、個人の思想や良心の自由に対する重大な侵害で、戦前の全体主義を想起させるものであり、現職政治家がこんな発言をするのかと驚愕してしまった(どんなおっさんが言っているのかと思ったら、武藤貴也氏が36歳という若手であることにさらに驚いた)。こんな“過激”な発言が国会議員から出るのも、SEALDsが勢いを伸ばしていることに対する焦りの表れかもしれない。
安保法制を通して、集団的自衛権を行使したくてたまらない政治家たちにとって、SEALDsはどうやら「目の上のタンコブ」のような存在らしい。一人の地方議会議員から、また一つおどろきの発言が飛び出した。
福岡県行橋(ゆくはし)市議会議員小坪慎也(こつぼ しんや)氏である。彼は、SEALDsのメンバーの一人が発言した「戦争したくなくてふるえる」という言葉をもじって、2015年7月26日に自身のブログで「SEALDsの皆さんへ:就職できなくてふるえる」というタイトルで「学生時代にデモをやっていて、後でどこにも就職ができなくても知らないぞ」と延々と脅迫をしたのである。どんな脅迫をしたか、彼のブログから該当箇所をそのまま抜粋する。
企業が学生を見る際、大学名を見ます。学生自身を見ることは、基本的にありません。主導権は「選ぶ側」にあります。いいですか?主導権は、「選ぶ側」にあります。
企業側が「選ぶ側」である以上、
企業サイドのルールと、業務の都合で物事は動くのです。それが現実です。(中略)
具体例を挙げれば、体育系のサークルにて強姦騒ぎがあった際など、学名に傷が入れば全ての学生に影響がでています。むろん、本人たちは当然のことではありますが、
【そんな空気のある大学】とみなされるのです。(そのような組織・集団としての空気を)
「停めることができない」人間とは
「組織を守るために動けない人間」です。言い換えれば会社を守ることもしないでしょう。
そんな人間を雇用する意味などない。(中略)
(大学名は)在学中の者が築いた信頼ではないからです。自分が得た物でない以上、抗議する資格すらないからです。先輩たちが、社会に出てのち築いたものであり、
在学生は「与えられたもの」だからです。その際に、自らの所属するブランドを毀損してしまえば、どうなるかは自明だと思います。リスクを徹底して排除したい。
リスクを背負う必要など、企業側にはないのですから。(中略)
企業側のオファーは就職の開始時期でしょうが、どうあっても間に合わないでしょう。
結果として、全員シャットダウンせざるを得なくなるのではないでしょうか。早稲田・慶応の声もありますが、ここは大丈夫。
卒業生には有名な政治家も多数おりますし、警察官僚も多数。
何をやろうとも選抜は優先して行われ、学生への就職活動への影響は低い。
それに比較し、パワーが弱く、歴史も伝統もない大学は
なんの選抜もされず、結果として全滅してしまうのではないでしょうか。特に、教授までデモに参加し、学生を煽動している例もあると伺っています。
引用終わり
小坪氏の言いたいことを要約すれば、
①採用するか否かの主導権は企業だけが握っている。
②企業は、学生個人など見ていない。重視するのは「大学名」だけである。
③大学名というブランドが傷つけられれば、その大学に所属する学生すべての信頼が失墜する。
④学生が社会運動を行うことは、その学生の所属する大学のブランド価値を傷つけることになる。
⑤ただ、早慶のような有名ブランドの大学ならまだリスクが少ない。しかし、そこまでブランド価値のない大学だったら「全滅」=つまり、運動をしていた学生が所属する大学の学生全員が就職できない危険がある。
⑥私は学生のことを考えてこのようなことを言っている。そのような危険を知らせず、学生を焚き付ける教授は一番の罪がある。
労働法的観点から小坪氏の発言を論評してみよう。まず、①については、まさしくそのとおりである。労働契約が他の商取引一般の契約と異なるのは、まさしく「労使の立場の非対等性」にある。賃金で生活を営まなければならない労働者は、自ずと使用者よりも弱い立場で条件をのまざるを得ないという構造がある(それをドイツの法学者フーゴ・ジンツハイマ―は「従属労働」と呼んだ)。したがって、そのままの状態だと使用者の思うがままに労働者が搾取されてしまう危険があるということで、法の力によって労働者の権利と交渉の対等性を確保しようということで制定されたのが、まさしく労働法である。
だが、労働法には大きな限界がある。それは「労働法は労働者が採用されてから適用されるものであって、使用者の採用段階では及ばない」ということである。そのことを述べたのが、三菱樹脂事件の最高裁判決(最大判昭48・12・12)である。本件は、学生運動をしていたことを申告せずに採用された原告が、採用後試用期間中にそのことが使用者にばれて、本採用を拒否されたというケースである。
最高裁は本採用の拒否が正当か否かを正面から判断することを避けているのだが、判決文のなかでは、いかなる者を雇い入れるか、いかなる条件で雇うかについて、「法律その他による特別の制限」がない限り、原則として自由に決定することができ、ある人が特定の思想・信条をもつことを理由として企業がその人を採用しないことを、当然に違法とすることはできないと述べられている。ここでいう「法律による特別の制限」とは、例えば、性別を理由とする募集・採用差別を禁止した男女雇用機会均等法5条や、一定比率以上の障害者の雇用を義務づける障害者雇用促進法37条や、採用後に労働組合に加入しないことを雇用条件とすること(いわゆる「黄犬契約」)を不当労働行為として禁止する労働組合法7条などである。
では、思想や信条を理由として採用しないということは許されるのだろうか。労働基準法3条は「信条による差別」を禁止しているが、本条は採用「後」の労働者に適用されるものであって、採用前の段階では適用されないと解されている。また、前述の三菱樹脂事件では、日本国憲法19条は思想・良心の自由を保障しているが、憲法は私人である民間企業には直接適用されないとして、原告の訴えをしりぞけている(ちなみに、その後原告は会社と和解し復職。その後定年まで勤めた後に、三菱の子会社の社長になったという)。
ここまで見てくると、「じゃあ、SEALDsでデモをしていたことで採用しないという企業が出てくるとすれば合法なのか」と思うかもしれない。たしかに、労働法が採用段階では無力だと言われれば、思想や信条などで判断してもいいのかと思えるかもしれない。しかし思想・信条の自由というのは、民主主義国家の条件ともいうべき根幹の価値である。民主主義を標榜している国家として、日本は、個人の思想・信条を最大限保障することが当然の大前提であるが、他方、企業は採用の自由の名の下に、それらをまったく無視していいということになるのだろうか。
厚生労働省は、指針(平成11年労働省告示141号)で、「収集してはならない個人情報」として、本籍地・出身地、家族状況(家族の職業や収入等)など社会的差別の原因となるおそれのある事項や、思想、宗教、人生観、支持政党、購読新聞、学生運動歴、労働組合活動歴などの、思想及び信条に関わる事項に関することを挙げている。また、公正な採用選考が実施されるようにするため、採用選考時の身元調査や合理的・客観的に必要性が認められない採用選考時の健康診断は行わないようにすること、思想や宗教といった本来自由であるべき事項や、本籍、出身地、家族状況などの、本人に責任のない事項について調査しないようにすることが、公正な採用選考のために重要であると、採用する側に向けて配慮を促している。これら行政の指針等は、法律上の直接的な規制というわけではないものの、個人の最大限の尊重、思想良心の自由、法の下の平等、といった、まさしく憲法の基本的人権に関わる内容を含むものであり、これを軽視する企業は正義が著しく欠如した「ブラック企業」だと言えるだろう。
それにしても、女性、外国人、障害のある人などを積極的に雇用し、「企業の多様性」を高めることがいかに重要であるかということは共通認識になっていると思うのだが、小坪氏の頭にある「企業像」とは、多様性に背を向け、同じ思想をもち権力のある者に文句一つ言わず従属する人間だけを集めて、組織から一切の個性を排除しようとする、きわめて閉鎖的で古いものと言わざるを得ない(ちなみに小坪氏は36歳。これまた若くて驚いた。前述した武藤貴也議員と同じ年齢。若手政治家のオッサン化?)。
小坪氏は、「企業は「大学名」だけを見ている」から、その大学のブランド価値を落とすような行為をしたならば、その大学に所属する学生すべてが損害を受けることになると言っている。たしかに「学閥」の存在を否定はしない。大学の名前を判断基準の一つとして重視する企業があることも否定はできない。しかし、それが日本企業のすべてであるかのように語るのはあまりにも誇大に過ぎる。むしろ、大学名にとらわれず、学生の個性を重視する採用方式も多く見られるようになってきた。それほど有名でない大学の出身者が、面接で大胆なプレゼンテーションをしたことが高い評価を受けて、有名大学の学生を押しのけて採用に至った学生の例もいくつも知っている。
さらに驚くのは、小坪氏がSEALDsの活動を「強姦」事件と同列に置いていることである。小坪氏は強姦事件を起こした学生が所属する大学はその大学自体の評判が失墜し、そこに所属するすべての学生がそのマイナス評価を受けることになると言っている。しかし、個人が起こした事件の責を、なぜ同じ大学に所属するという理由だけで無関係の学生が負わなければならないのかまったく理解できない。小坪氏は、人間の基本は「独立した個人」であるということが、頭からすっぽり抜け落ちてしまっているようだ。そして、国家や企業といった既存の権力に対して、疑問を感じて異議を唱え、自分の頭で考え行動する「個人」の存在が大嫌いなのだろう。小坪氏は、大学生のことを、将来の企業のコマの一つとしてしか考えていないようだ。コマには思想も信条もただ邪魔になるだけだ。だから必死になって「そんなことしてると就職できないぞ」とブログで脅迫するのだろう。しかし、いくら必死になるとはいえ、「パワーが弱く、歴史も伝統もない大学は
なんの選抜もされず、結果として全滅してしまう」などという言葉を、いやしくも議員が学生に対して使うというのは明らかに常軌を失っている。
企業の採用とは、いわば、「合コン」みたいなものだと、私は自分の経験から思う。セオリー通りにいくものではない。なぜならば、応募する側も人間、採用する側も人間、完璧な面接ができたからといって、必ず採用されるわけでもない。そして採用されたからといって、それが人として合格という証拠のわけでもない。そのときたまたまマッチングが良かった、というきわめて曖昧で不確かなものだ。そんな不確実なもののために、かけがえのない学生時代、学生個人の思想や良心を抑え込む必要は、まったくない。
「企業の採用」を人質のようにちらつかせつつ、自由な学生の意見の表明や活動を萎縮させるような圧力をかける政治家には、むしろこちらから「不採用通知」を渡したいくらいである。
奥貫妃文
Hifumi Okunuki
相模女子大学法学の専任講師
Full Time Lecturer of Law at Sagami Women’s University
全国一般東京ゼネラルユニオン執行委員長
Zenkoku Ippan Tokyo General Union Executive President